平成26年 長崎「平和への誓い」全文 

長粼の原爆祈念式典で安倍政権は痛烈批判

今日、長粼は69回目の原爆忌を向かました。
「長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典」
安倍政権の集団的自衛権巡る一連の動きに痛烈な批判が集まりました。
その中でも首相本人の前で直截な表現で意見をしたのが被爆者代表の城臺美彌子さんでした。
それがとてもロックな演説で見ていてかなりグっときたので全文をアップします。
なおテレビの聞き書きなので間違いがあるかもしれません。

長崎「平和への誓い」全文
城臺美彌子

1945年6月半ばになると一日に何度も警戒警報や空襲警報のサイレンがなり始め、当時6歳だった私は防空ずきんがそばにないと安心して眠る事が出来なくなっていました。
8月9日の朝ようやく目が覚めた頃、あのサイレンがなりました。
「空襲警報よ、早く山までいかんば。(行かなくては。)」
緊迫した祖母の声で立山町防空壕まで登りました。
爆心地から2.4km地点、金比羅山中腹にある現在の長粼中学校校舎のま裏でした。
しかし、敵機は来ず
「空襲警報解除」の声で多くの市民や子供達は
「今のうち。」と防空壕を飛び出しました。
その頃原爆搭載機B29が長崎上空に深く侵入していたのです。
私も山の防空壕からちょうど家に戻った時でした。
お隣の同級生、とみちゃんが
「みやちゃん。遊ぼ。」と外から呼びました。
その瞬間、キラ、と光ました。
その後、何が起こったのか、自分がどうなったのか何も覚えていません。
暫く経って私は家の床下から助け出されました。
外から私を呼んでいたとみちゃんはその時何も怪我をしていなかったのにお母さんになってから突然亡くなりました。
たった一発の爆弾で人間が人間でなくなり、たとえその時を生き延びたとしても突然に表れる原爆症で多くの被爆者が命を落としていきました。
私自身には何もなかったのですが、被爆三世である幼い孫娘を亡くしました。
「私が被爆者でなかったらこんな事にならなかったのではないか。」と悲しみ苦しみました。
原爆がもたらした目に見えない放射線の恐ろしさは人間の力ではどうする事も出来ません。
今、強く思う事はこの恐ろしい非人道的な核兵器を世界から一刻も早く無くす事です。
そのためには核兵器禁止条約の早期実現が必要です。
被爆国である日本は世界のリーダーとなって先頭に立つ義務があります。
しかし現在の日本政府はその役割を果たしているのでしょうか。
いま進められている集団的自衛権の行使容認は日本国憲法を踏みにじった暴挙です。
日本が戦争が出来る国になり日本の平和を武力で守ろうと言うのですか。
武器製造、武器輸出は戦争への道です。
いったん戦争が始まると戦争は戦争を呼びます。歴史が証明しているではありませんか。
日本の未来を担う若者や子供達を脅かさないで下さい。
平和の保証をして下さい。
被爆者の苦しみを忘れなかった事にしないで下さい。
福島には原発事故の放射能汚染で未だ故郷に戻れず仮設住宅暮らしや余所へ避難を余儀なくされている方々が大勢おられます。
小児甲状腺癌の宣告を受けて怯え苦しんでいる親子もいます。
このような状況のなかで原発再稼働原発輸出行って良いのでしょうか。
使用済み核燃料の処分法もまだ未解決です。
早急に廃炉を検討して下さい。
被爆者はサバイバーとして残された時間を命がけで語り継ごうとしています。
小学一年も保育園生さえも私達の言葉をじっと聞いてくれます。
この子供達を戦場に送ったり戦火に巻き込ませてならないという思いいっぱいで語っています。
長粼市民の皆さん、いいえ世界中の皆さん、再び愚かな行為を繰り返さない為に被爆者の心に寄り添い被爆の実相を語り継いでください。
日本の真の平和を求めて共に歩きましょう。
私も被爆者の一人として力の続く限り被爆体験を伝え残していく決意を皆様にお伝えし私の平和への誓いといたします。
平成26年8月9日 被爆者代表 城臺美彌子