映画「靖国」長崎で上映


長崎新聞2008/9/17の記事


(この駄文の作者はネットサヨクであり日教組に戦後教育で洗脳された自虐史観の持ち主です。その点をご承知ください。)
(この駄文の映画評がいつの間にか靖国に対するいちゃもんになってます。ご承知下さい。)
>映画「靖国」を見てきました。

長崎は映画館ラッシュだ。二つめのシネコンが出来る。その中で単館の映画館は次々と閉館している。県に実力行使で進出を止められているショッピングモールが出来たら実に人口40万そこそこの街にシネコンが3つもある事になる。
とにかく“バブル”とも言えそうな巨大ショッピングモールの進出競争である。更に南に北にショッピングモールの進出予定が目白押しである。そんなに需要があるのだろうか?とても不思議である。

そんな長崎に「映画・靖国」がやって来たので見てきました。

9月15日に一日三回の上演が「市民会館」で行われました。
地元のキリスト教の方や労働運動をやっている方が運動をされて、長崎での上映が実現したそうだ。なんでもお約束で右翼の脅迫があったそうだ。もっとも私の目には右翼の街宣車がいたとかそんな事は確認出来なかった。この街でも街宣車とかは目立つけど市民の目はまだまだ彼らに冷ややかだ。市長を二度も右翼のテロで亡くしているで彼らに対する市民の反感は大きい。

>B級娯楽映画でした。

それで見てきた感想である。
私には「娯楽映画」として楽しめた。
「何を不謹慎な。」と言う声も聞こえて来そうだが。
まず目を引くのは靖国に蝟集する皆さんの生態を「どうぶつ奇想天外」的視点で楽しめる。正にフリークス大集合である。
この映画の一番楽しい見方は、NHKの地上波あたりで放送して”キタ━━━━(゚∀゚)━━━━”とか言いながら痰壺の実況板で遊ぶには良いかと。
そこに登場して国家の誇りだの自虐史観だの憂国だの言いたれる人達だが、俺の父親よりは確実に若いなと思った。つまり、戦争時はせいぜい物心が付くかどうかで西暦1962年生まれの俺が言うのもなんだが絶対に戦争を知らないなと。
リアルで戦争を体験した世代が俺の生活環境にも生存している。彼らの話を聞く事がままある。ところで皆さん、彼らは「誇りある大東亜戦争、名誉ある自衛戦争」を戦い抜いたのであるから、さぞかし今の世代の「自虐史観」を嘆いているかと思いきやそうでもないのですよ。
彼ら父とか近所のプチインテリの年寄りとかいるけど全員の一致した意見で「あんな所には英霊はいないよ。家族が祀るよ。まあ、無縁になったらお諏訪さん(地元の鎮守)が祀るのさ。耶蘇の人は教会で毎週アーメンしてくれるから成仏するたい。」と言う。
靖国は人々の生活に根ざしてない。宗教と政治は長きにおいて無関係では無い。それは否定しない。だが、生活や人々の生活に根付いてこその宗教であろう。長崎でも隠れキリシタンにしろ諏訪神社の氏子にしろ黄檗宗の中国人にしろ人々の生活とか心情・信条とか文化風習に根付いていた。
だが、靖国神社は人々の生活から乖離した所にある。無理がある戦争を遂行するために用意されたフィクションの舞台装置である。それが現在まで博物館のガラスケースの中というか、動物園の檻の中という面持ちである。国家神道の壮大なフィクションが未だに続いている悪夢の万華鏡を覗いてるようだ。
悪趣味というか気味が悪いのも、ここまで突き抜けていると逆に笑えてしまう。「一度目は悲劇、二度目は喜劇」とはこのことであろう。
この映画の映像を見れば、悪夢の様なコスプレ集団としか思えないし、「これ絶対ネタでやってるよね。冗談だよね。?」としか思えないのである。靖国神社の由来はどうであれ、国家神道とうい一種の新興カルト集団に私には見える。カルト集団のパフォーマンス。本人達がマジであればマジであるほど異様に見てて来る。
それだけ異様で圧倒的な映像であった。
ハイハイ、地方在住のネットサヨクの目がくらんでるだけすよ。そう怒るなって。ハイハイ。

>暴力の装置

長崎では諏訪神社で秋の大祭である「おくんち」がある。地元民の年に一度の最大の行事だある。子供の頃などお小遣いを貰って縁日を見るのが楽しみだった。大人だってわくわくする。ここで催される山車や踊りは皆さん一度は見に来てくださいよ。
そこにあるのは伝統文化としての宗教である。肩肘張った愛国心も無ければ、死をもって貴しする野蛮もない。底抜けに明るい神道の行事である。
この日ばかりは、神仏混等とはいえあらゆる宗派の仏教徒キリスト教徒もごく少数のムスリムさへこの秋のお祭りを楽しむ。そこには抜けた明るさがある。これが、ごく自然な神道の姿であろう。長崎の場合、確かにキリスト教徒弾圧という血に塗られた歴史の側面があるとはいえ、人々の生活にとけ込み豊穣な文化を形成している。マナジリを決して人を不幸に追い込む事は無い。であるから死せる魂を生きている人の恣意で宥めたり崇めたりするものではないのだ。
国の為に殉じた魂を慰霊すのは悪いことではない。彼らは靖国を心のなかに抱いて死したかもしれない。だが、それが国家の戦争遂行を補完するために練られたフィクションであることを知ってしまった私には、靖国に蝟集する彼らが真剣に愛国だの慰霊など言い立てるのはとても痛ましく思える。つまり「とてもイタイ。」のである。
映画の主事公といえる刀鍛冶の職人さんにしてみてでも、育った世代と環境からしてごく自然の感覚である。後に言われる戦争責任に対して複雑な思いがあるのは想像に難くない。自分のごく自然な宗教観や政治観が、自分のあずかり知らない所で人の生死を決し恨まれたり非難されていたとあれば反感も持つだろうし、戸惑いやある種の後ろめたささえ生まれるかも知れない。全く不幸な事であり、不幸を生んでしまった靖国と言う存在は何であろうか。
そこにあるのは自国民に対しても世界、特に東アジア諸国民に対して、「暴力の装置」としてその精神的な象徴に利用されて自らもその暴力と同化してしまった靖国は今も「暴力の装置」としての機能を止めてはいない。

>私は貴方の痛みを知り、私は痛みを伝えます。

彼らは言う。「先の大戦は聖戦であり…」
もう何度も聞いた言いぐさである。それを言う人たちが「純粋」あればあるほど痛ましい。
祖国を守ると言う名目で死に至った魂達を思うに、彼らを死に至らしめた暴力の装置を美化する不幸が此処にある。
歴史認識の話はしても不毛な話であろう。宗教的な信念と同じくどんな信念でも信仰でも捨てることは難い。
歴史認識が違う人から見れば全く別物の映画になろう。監督が意図した通り、論議のきっかけとなる映画だ。靖国で「愛国」を叫ぶ人たちから感じられるのは幼児的な自己愛である。ひたすら肥大化した自己愛を受け止める装置としての宗教であり靖国神社だと考える。自己愛は別に悪いものでも無かろう。精神科医は「全ての愛は自己愛だ。」と言う。
前提となる歴史認識が“彼ら”とは根本から異なるので私を理解しがたい怪物、または愚かな売国奴と思う人もいると思う。
くどいけど、大事な事だから二度言います。アジア諸国民と自国民を不幸にした暴力を覆い隠す為の装置、壮大なフィクションの装置が靖国神社である。これは敗戦後も自動装置として今も暴走を続ける。若者や不幸を被った人が自己愛不満のそらせるために新たなアイデンティティの危機を回避するための靖国である。
「我々は実は侵略者じゃなく正義の解放者だった。」と信じたい気持ち、これもまた人間といして理解しうる心持ちである。昔の自己犠牲を否定するにはあまりにも過酷であろう。加害者であり被害者達がその過酷で悲惨であるがうえで慰撫される為の靖国である。靖国に頼るざるを得ない人々を見るといたたまれない気持ちである。
これこそ全ての人を不幸にする悪夢ではなかろうか。


あの刀鍛冶職人さんの自然な愛国心、慰霊の心、日本としての自然と先祖の霊を敬う気持ちは素晴らしいものだし、極めて自然だと思う。だがその自然な心のありようを装置化して悪用し、暴走してしまった。スターウォーズで言えば「フォースの暗黒面」だ。
歴史はそう簡単に清算は精算出来るものでも無いとは思う。だが負の部分を同胞がカルト宗教の如く正当化してファナティクに言い立てるのを見ると後ろ寒いものがある。
たとえば、日本人にとってアメリカが核投下を正当化して快く思う人はいないと思う。その後に続く核に関する意見は違えどだ。久間某の発言がどれだけ不見識かは言を待たない。アメリカの正当化の論理もヒロシマナガサキの痛みに想像力が届かないからの無知や不見識から来るのでは無かろうか。
アジアの同胞が何を感じるかを想像出来ないとすれば、我々に必要なのは「他者に対する想像力」ではなかろうか。日本は無知傲慢ではなかろう。自虐史観と言われようと。
つまり個人の意思を置き去りにして心の問題まで国家が手を加えててプロパガンダにしようとしたところに乖離が生じた訳で、その違いの心叫びのかみ合わなさが悲劇というより喜劇になってしか悲しみがある。日本人の我々にもっとも必要なのは「他者に対する想像力」がある所を魅せてアジアの中で尊敬される国になって欲しいと思う。