罪悪だからこそ

俺はかつて風俗をよく利用していた。俺には「後ろめたさ」はまず希薄だった。罪悪感もそうは感じていなかった。

俺は風俗嬢に欲情した。当然である。あんなに綺麗で良い匂いがするのに欲情しない訳がない。俺は風俗嬢を「恥辱」とも「罪悪」とは思わない。ただせめて十分な報酬を支払うべきだと思う。買春という行為を行う自分自身が「悪」なのだ。

売春を徹底的に取り締まったら一番怒ったのは収入を絶たれた等の売春婦だったという都市伝説も聞く。悪を為してしまう動物としての自分がいる以上、つい誘惑に負けてしまった以上、せめて十分な報酬を彼女らに払うべきだと思う。

アジア某国を旅行したときである。10メートルおきにいる勧誘誘惑に負けてつい買ってしまったが、そういうときはありったけのチップを直接彼女らに払った。
無論、金で罪悪感を払拭しようとう根性が一番悪い。
「苦界」という様に貧困から逃れる為に彼女らは体を売った。一部に例外をあろうが洋の東西を問わず、今も昔もそうである。現在において気軽に体を売る女子がいるのも一種の「貧困」であろう。勝ち組マッチョの金持ち父さんの娘が体を売る事はあるまい。

長崎の「丸山」は経営こそ民間だが実質上の政府(奉行)の管理下にあるも等しかった。そこに働く女性も近隣の貧しい階級であった。芸子として華やかに長崎の文化の表に立つのはほんの一握りで、多くは体を売る文字通りの「苦界」に身を沈めて一生を終えた。例外的な美談も郷土史の中に見受けるがそれは「苦界」裏付ける傍証である。

売春を「5兆円産業」と言う神経自体を疑う

それは古い長崎でも一大花形産業であり経済の一角を支えていた。地元の文化を支える伝統芸能でもあった。だがそれは多くの不幸によっても支えられたものである。

『売春を「5兆円産業」とう神経自体を疑う』

倫理をどうこう言うの正論はもとより

政府が売春という不幸を認めるというの明らかに誤りである。

今は江戸時代では無い。

不幸にして売春をせざるを得ない女性達からみかじめ料を「政府」がとるのか。やくざから政府に搾取の対象が移るだけである。それでも人間というものは複雑であるから春を売る人も買う人も出てくるであろう。彼女らを厳しい父の様に取り締まり、優しい母の様に保護するのが文明国の政府の役割であろう。それが出来ないのなら政府なんざいらない。映画「マッドマックス」の「バータータウン」で十分だ。

ICカードで人間の性まで管理するとは正気であろうか。そんな人間の人間たる根源的な部分まで管理されたくない。違法にセックスすれば逮捕されるのか。そんな社会まっぴらごめんだ。

売春や麻薬を合法化し政府が管理しそれを、雇用問題、生活保障のセイフティーネットと連動させるとはとてもじゃ無いが正気の沙汰ではない。

もちろん、当然ことながら、売春を「通常の職業と完全に同じもの」として国家が認めるわけではない。通常の職業とは別枠で扱われる。たとえば、失業保険や生活保護を受ける前提条件として、「ちゃんと職探しをしたが、職が得られなかった。」というものがあるが、ここで言う「職」には売春は含まれない。このため、「売春以外に職がなかった」というケースでは、当然のことながら、失業保険も生活保護も受けられる。


市場原理主義者とやらの勝ち組マッチョは「弱者は体や麻薬を売って福祉の財源を作れ。」と言ってるようにしか俺には読み取れない。

泥棒をなくす為に公営泥棒公社が泥棒の市場を奪えばよいと言う論理にしか俺には思えない。

市場原理主義を持ち込んで良い場所とそれではダメな場所がある。何度も言うようだが市場原理主義で解決出来るなら政府なんかいらない。ダメな奴、弱者はみんな死ねばいいと言うことにはならないか?そうと書いてる訳では無いと思う。

俺は売春を悪とは思わない。売春をせざる得ない状態が悪で、金で買う自分が倫理に反してると自覚する。

お金を生み出そうと生み出さなくとも、人の為に役にたとうとたつまいと、人というものは貴いものではないのか?人間の価値は全て市場が決定するのであろうか、貨幣に換算されるものであろうか。

知人友人には「全く生産性の無い」人はいっぱいいるし、自分だってたいして稼いではいない。だが「人の貴さ」をないがしろにする様な事があれば我々は不幸であり、勝ち組としてリアルマネーとか価値を創造している人達の足下も危うくなるだろう。

人が人としての貴さを大事にしなかったら、皆が不幸の嵐のなかに集団で疾走していくことにはならないか。

「財源を示す。」のは弱者、福祉の受益者の仕事ではない。我々全体の仕事であり、政治家の仕事であり、そのための官僚システムであり、政府であり、学者達やはては末端のはてな市民(笑)ではなかろうか。