伊藤一長長崎市長射殺事件城尾某の死刑判決は疑問だ。

伊藤長崎市長射殺事件城尾容疑者に死刑判決(PDF)
判決は「民主主義の根幹を揺るがした」としているが、私にはどうにも「民主主義」云々の話ではないと思えるのだ。道路工事業者の行政からの融資や自動車事故を言いがかりとして、難癖つけて行政を強請ろう(ゆすろう)とした三流ちんぴらが跳ね返ったまねをしただけである。こんな安い奴が「民主主義」云々などと政治犯のような扱いでは片腹が痛いのである。
考え方は池田小学校のタクマと似ている。タクマを死刑にすればサイコパスのタクマの思うつぼであり死刑が死刑の意味をなさない。つまりタクマの様な奴は死ぬまでその精神を暴きかき混ぜ晒しだし力ずくで改心刺されるという、彼にとってはもっともかっこわるくて残虐な刑があると思う。
話はそれたが、「こやつには「死刑」等というある意味名誉刑は生ぬるい。無期で死ぬまで改心の強要と良心や世間の目遺族の目親族の目、そして時分自身の目にさいなまれながら死ぬまで苦しむべきだ。
かれは生まれながらの暴力団で心がどう開くが解らないと言うかもしれないが、長崎は宗教者は人材に事欠かない。彼の心をかきむしるために彼に人間の心をあればこそ、良心の部分を再発見させる事は可能である。
死刑より残虐な刑罰は実はあるのだ。
それは親族にとっては、あるいは市長の友人、熱心な部下支持者、感情的に収まらないだろう、死刑以外では。呉智英は「日本に敵討ち」の復活を、おれはハリウッド映画の「ランニングマン」やマッドマックスのサンダードームの実現を希う基地外鬼畜であるが残念ながら今の日本は「敵討ちの権利」を「国に委譲」してまった。刑罰は恨みではなく行為によって裁かれる様になった。
で最近、テレビのワイドショーが大嫌いである。
被害者の家族がテレビに出演して被害者の気持ちを声高にかたる、いかにもおばちゃんのレポーターがそれを盛り上げる。べつにいかんとは言わんが非常に違和感を感じる。そりゃおれも同じ立場だったら同じになるだろう。
それはいい。それはいい、としても行為に対しての罰なり判決が情緒で流されるなら、それは極端な妄想をたれると昼の頭の悪いワイドシューを見た頭の悪い陪審員が頭の悪い判決を出すふざけだワイドショー社会になっていくのでは。
もしかしたら、それは頭の悪い愚衆政治で小柄な総統様が出てきそう。と酔った勢いでおもうのであります。